世界シリーズ・第二界 世界を売ってみませんか?

   



第二部 承転(衝天)



「………何で」
 彼―――イヅルは未だに呆然としていた。
「ふふっ」
 彼女―――ミウはまだ微笑んでいた。
「何で!」
 イヅルは沈痛な表情で叫ぶ。
 彼の声は教室中に響き渡るには十分な声量で、クラス中の視線を集めてしまう。
 はずなのに。
 誰一人、隣で席に座っているクラスメイトでさえ彼に注目しない。
 まるで彼が見えてないどころか存在しないかのように。
 彼はそんなクラスを驚愕(きょうがく)幾許(いくばく)かの恐怖をにじませて見回す。
 クラスは依然いつもと同じ光景だった。
 いつもと違う人物が堂々と居座っているのに、だ。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
 その異分子であるミウは自分がいるのが当然とばかりに、イヅルの席に座っている。
 イヅルの席で。
 サイズの合っていない(すそ)は地面につき袖からは指先しかのぞかないほど長い、男ものの制服を着て。
 イヅルの友達と親しげに会話をして。
 イヅル、と呼ばれている。
 それはまるで本当にミウがイヅルになってしまったかのようだ。
「……何だよ、これ」
「…………………」
 痛みをこらえるかのような苦渋の表情を浮かべあたりを見回すイヅルに対し、ミウは微笑みで返す。
 そんな二人をよそに教室はいつも通り生徒か登校してきて人数が増えていく。
 イヅルはその中の一人の女生徒を見てハッ、とする。
「おい、楠木!」
 親しい間柄なのか親しげに呼ぶ。
 仲がよければ自分のことを見えるのかもしれない、とイヅルは思ったのだ。
 それとも、彼女も自分のことに気づかないのか、と最悪な予想が脳裏をよぎる。
 が、
イヅル(・・・)! あんたねぇ………」
 クスノキと呼ばれた女子は声に反応してこちらを目指して歩いてくる。
 希望を見い出して、喜びが声と表情にも現れる。
「クスノキ! なあ、聞いてくれよ」
 イヅルはその女子に話しかけながら肩に手を置く。
 すると、するり(・・・)と手が彼女の肩をすり抜けた。
「なぁ!?」
 まるで立体映像なのかのようにイヅルの手は彼女にのめりこんだ。
 触覚はまるでないが、自分の手が他人の体の中にのめりこんでいるという視覚情報に気持ちの悪さを抱いて慌てて引き抜く。
 彼が今のおぞましい感覚におののいている一瞬の間に、女子はズブリ(・・・)と体全体をイヅルにめり込ませた。
「いいっ!?」
 唐突な感覚に体が硬直するもなく、彼女はイヅルの体をすり抜けて、
「イヅル! あんた昨日どうしたのよ!」
 イヅルの背後にいたミウに話しかけた。
 イヅル、ではなくミウに。
 ミウは面白くて仕方ないといった表情で微笑んでいる。
「ちょっと、笑ってないで何とか言いなさいよ」
「オイオイ、イヅルビビってるじゃん。楠木は何を怒ってるんだ?」
「ビビってるって……笑ってるようにしか見えないんだけど」
「そんなことはないダロ。イヅル君は怖がってるよな、なあ」
「…うん、コワイコワイ」
「アンタには聞いてないわよ眼鏡。で、昨日はどうしたのよ、イヅル」
「…………昨日って?」
「昨日、校庭に嶺柄(みねつか)先輩がいて、ずーっと陸上部の邪魔をしてたのよ」
「…それってつまり、嶺柄先輩が邪魔だったのはイヅルが彼女を止めなかった責任があるって言いたいのか?」
「それは流石にひどくねぇ? いくらイヅル君が『おもり係』でも24時間つきっきりでいるわけにはいかねえだろ。さすが陸上部はガサツだな」
「違うわよ! ………昨日、あんたホームルーム終わったらすぐ部活に行ったんでしょ。なのにあの女はなんで校庭にずっといたわけ?」
「…なんだ、先輩と一緒にイヅルも校庭にいたのか?」
「いなかったわよ………アンタのことだからずっと部室で待ってたんでしょ。流石にそれは私はひどいと思うんだけど」
「まあ二人だけの部活なのに、片方が来ないことには部活できないどころか一人きりでさびしいだろうなあ」
「…イヅルはずっと待っていたのか、忠犬(ハチ公)よろしく」
「………まあね」
「…見上げた忠誠心だな。今度渋谷駅前にお前の銅像も飾るか」
「茶化さないで。この際だから言うけどアンタ、あの先輩にいいように扱われすぎよ。ホントは無理矢理付き合わされてるんじゃないの? ………もし、そうなら私に言ってくれれば何とかするよ?」
「眼鏡君」
「…なんだい、ノッポ」
「今のは意訳して『べ、別にあんたが心配だからじゃないんだからねっ』で、いいかねぇ」
「…いいと思う」
「黙ってろアホコンビ! 今真面目な話してるの、私は本気でイヅルが心配なの! あの傍若無人な先輩がイヅルをパシリかのように扱ってるのよ!」
「まあ、それに関してはイヅル君が大丈夫だって言ってるんだから、なあ」
「………まぁね」
「…イヅルの意見も尊重するべきだろ」
「でも――――」
 三人ともイヅルのことを心配し気遣っているのがハタから見てもわかるほどであった。
 青春してるなぁ、と思ってしまう程にいきいきとしている。
 毎日のようによくある普通の光景だ。
 そこに本人であるイヅルがいないのを除くならば。
 三人とも、心配の仕方はそれぞれだが、皆本気だろう。
 本気でイヅルのことを心配しているのだ。
 心が温かくなり、視界が(にじ)むくらいだ。
 ゆえに、よりその異常さが際立つ。
 目の前の人間が明らかにイヅルではなく、似ても似つかない性別すら同じでない人間だということに気づかない。
 そしてそれを(なが)めている本物のイヅルに気づかない。
「うっ………」
 イヅルはその醜悪さに吐きそうになった。
 ミウはそれをちらりと一瞥(いちべつ)し席を立つ。
「わたし、じゃないや、俺ちょっと行くところあるから」
「どこに行くのよ、話はまだ終わってないわよ」
「…楠木、男がこんな時、何処に行くかなんて、聞いちゃいけない」
「へ?」
「かわいく言うなら、お花を摘みに?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ、さっさと行け馬鹿ッ!」
 ミウは自分(あて)の罵声を背中に受けながら、廊下へ向かう。
 その途中、イヅルにすれ違った時に耳打ちして。
「行こっ、お兄ちゃん」
「………………………」
 イヅルはふらりと力なくミウの後を追う。
 それは追うというより、ただ言われたから付いていっただけの完全な受動だった。


「ここでいいかな」
 ミウは人気のない廊下の隅にたどり着くと、腰に手を当てくるりと後ろを向きイヅルを見た。
「ね、お兄ちゃん」
「………俺のことを『お兄ちゃん』と呼ぶな」
「あはっ、怒ってるのイヅル君?」
 すこしばかり馬鹿にしたかのような声色で、ミウは下からのぞきこむようにしてイヅルの顔を見上げる。
 そして冷たく突き放す。
「でも、こうなったのは私のせいじゃないよ――――――全部イヅル君の自業自得でしょ」
「――――――っ」
 そう、あの時、確かに、感じた。
 この少女は、ヤバい。逃げろ。逃げろ、と。
 勘、なんてちゃっちなモンではなく、生物としての本能が頭が割れそうな程の痛みを警告として発していた。
 それでも、イヅルは逃げなかった。
 (おろ)かにも。
 もはやこれは少女と呼んでいいものではない、とわかっていても。
 ならば、イヅルの責任だろう。
 波浪(はろう)注意報が出たのに海に行って死んだら、やはりそいつの責任だ。
 それと同じで、危機感よりもくだらない同情かささいな好奇心を優先してしまったイヅルが悪い。
 でも、彼女だって人間じゃないのか?
 ナイフで遊んでいて誤って死んだら、自己責任だが。
 ナイフを使われて殺されたら、刺した奴にしか罪はない。
 なのに彼女は、自分に責任はないと言う。
 言外に、自分は人間ではないと言っているのだ。
 自分は化け物だ。
 同情をするな、と。
 その事実にイヅルは唇をかみしめるしかできない。
 その事実にミウは満足したのか口調を(やわ)らかくする。
「でも、まあ、感謝はちゃんとしてるんだよ。他の人はみんな私のことが見えないみたいで素通りしてっちゃうんだもん、イヅル君が初めてなんだよ?」
「……………何年も前からそうしてたのか?」
「んーん、たぶん数日前から。気づいたらあそこにいたの」
「どうして、あそこから動かなかったんだ」
「ん、ん、ん? なに何? 興味あるの?」
 ミウはただ微笑むのではなく、獲物を見つけた猫のように意地悪気に微笑む。
「そうだよねー、イヅル君が今後どうなるかが関わってくるんだもん、気になるよね」
 そう、イヅルが売ってしまった『世界』というものが何なのかは分からないが、今さっき起きたことである程度の想像はできる。
「お互いの立ち位置が入れ替わっちゃった、くらいのことはもうわかってるよね」
「………………」
「つまり昨日まで私にあった出来事がイヅル君に降りかかってくる、かも知れないよね」
「別に、そういうわけじゃない」
「ふーん。まあ出来るだけ質問には答えてあげるよ。えーと、何だっけ? あ、そうそう私があの場所から動かなかった理由は、単純な話あの場所から動けなかったの」
 あの場所。眼下に街が広がる、ガードレールで仕切られて一歩間違えれば落ちて死ぬ場所。
 彼女はあの場所から動けなかったのか。
 イヅルが後ずさりした時に必死で呼びとめたのは、やっとやってきた獲物を逃がさないためだったのか。
 鳥籠(とりかご)、じゃなくて(おり)の方だった。
 檻とは危害を加えるものを中に閉じ込める為のもの。
 そして、その檻に(とら)われていた少女は一体何なのか?
「でも、俺は、ここにいるぞ」
 お互いの立場が入れ替わったのなら、イヅルはあの場所にいなきゃいけないはずだ。
「それは、契約の影響、かな」
「け、契約――――」
 世界を売ってみませんか?
「そう、多分だけど、まだお互いの立場が完全に入れちがった訳じゃないんだよね。完全に入れ替わったら私もイヅル君の姿が見えなくなるはずだし」
 この時になって初めてミウは表情から微笑みをはずして困惑に切り替える。
「まだ、契約が終わってないからだと思うんだけど」
「終わって、ない」
「4万円、だよ」
「…………ああ」
 売ったからには代価が必須。買ったからには対価が必要。
 売買契約。
「そんなのどこで知ったんだ? マニュアルがあったわけでもないだろう」
「んーと、何でだっけ。確か、なんとなく、こうしないといけないと思ったから、だと思う。どうにかして、『世界』を手に入れないと、思ったんだよ」
 生存本能みたいなものか? 火事場の馬鹿力、とは少し違うが命の危機に迫った時に人は本来以上の力を発揮する、みたいな。
 いや、もっと根本的なものか。呼吸の仕方や、心臓の動かしかたといった存在する前から組み込まれたもの。
 イヅルはそう推測する。
 そして何気なく、この話の核であろう事柄を聞く。
「何だ――――――――――――――――『世界』ってのは?」
 それは今までのが前振りであり、落ち着かない気落ちを鎮めるためだけの時間稼ぎであることを十分に思わせる重大な質問だ。
『世界』とは何ぞや?
 そう問いかけられたら、大抵の人間は昨日のイヅルのように答えるだろう。
 一つ、地球、というより森羅万象すべてを対象にした言葉。
 一つ、前のから限定して人間社会だけ。浮世、世間などを指す言葉。
 一つ、同じ物の集まりなどの特定の範囲を示す言葉。
 だが次のように聞かれるとどうこたえるか?
 ミウは優秀な教え子に満足するように、というより隠しているけれども言いたくてしょうがないというイタズラっ子のように。
「じゃあ、逆に聞いていい?」
 無邪気にそう問う。

 あなたにとって『世界』とは何ですか?

『世界』という曖昧模糊(あいまいもこ)な言葉に『あなたにとって』を付けただけの変化。
 だがその変化だけで回答はがらりと変わってくるだろう。
 家族、親、子供、兄弟、姉妹、妻、夫、恋人、愛人、友人、親友、恩師、教え子。
 そういった人間関係。
 家、学校、同好会、倶楽部、塾、職場。
 そういった社交関係。
 想い出、過去、しがらみ、因縁。
 そういった人生の軌跡(きせき)
 そういった今まで人が生きてきた痕跡(こんせき)
 それが自分の『世界』だと答えるであろう。
 その意味で彼女は彼に言ったのだ。

「私はちゃんと言ったよ。あなたの―――世界(すべて)を私にくれない? って」

『世界』―――――――それはその人そのもの!
 つまりイヅルは軽々しくも、たかが四万円で売ってしまったのだ。
 家族も、友達も、恩師も、知り合いも、家も、学校も、倶楽部も、想い出も、過去も、しがらみも、因縁も―――――――そして自分も。
 彼のこれまで生きてきた中でのすべての関係性を売ってしまったのだ。
 普通ならこんなのは無理だろう。だが彼女は普通じゃない。そんなことわかっていただろうに。
 愚かにも、愚かしくも、滑稽(こっけい)にも、道化にも。
 イヅルはその新しい事実に頭が追い付かないのか追いついても理解したくないのか、頭を手で支えるようにし壁に背をもたれる。
「だから」
 ミウはそんなイヅルに追い打ちをかけるが如く、言葉を続ける。
「イヅル君は私から取り返すしかないんだよ」
 彼女はイヅルを試すように挑むように見据える。表情こそ微笑んでいるが眼の奥の光は真剣そのものだ。
「でも、私は――――渡さないよ」
 返さないではなく、渡さない。
 それは不動の意志を強く表す。
「もう、もうあんなところに戻りたくない。あんな寂しいところに。わかる? 誰に話しかけても振り向くどころか反応すらしてもらえない。一人っきりであたりが暗くなってみんな帰っていくのに私だけあそこに居続けなきゃいけない。一人だけ、あんな崖っぷちの場所で。怖くて怖くて仕方ないのに、動けなくて、あそこに居続けるしかなくて。しかも、自分が誰なのか何なのかそれすらも知らなくて、いつ生まれたのかいつ死ぬのかもわからないで、3秒後には消えちゃうかもしれないもしくは100年も独りで居続けなきゃいけないかもしれない。そんな怖いことばかり頭に思い浮かんで思うの。それで最後にこう思ったの」
 うつむいて、最後の方は声を震わせて、思い出したくもなくて考えるだけで震えが止まらない程の記憶を、今まで胸の内に閉じ込めていたものを吐き出していく。
「本当に私、存在してるの?」
 自分に問いかけるような独り言ではなく、明らかに聞き手を意識した音量と口調で語りかける。自分が(だま)し奪った者へ。
「わたしはもう一人ぼっちは、イヤ」
 最後に本心を吐いた。
 同情して、(あわれ)んで。
 そうすがるような瞳で見つめる。
 だが、そんなことはイヅルだって同じなのだ。
 お互いの立場が変わったのなら、今その場所にはイヅルがいる。
 その恐怖も寂しさもすべて無理やり彼に引き渡したのだ。
 売買契約、というより借金申込。イス取りゲーム。
 そんな自分勝手な言い分に何かを思ったのか、苦虫をかみつぶしたはずなのに、なんか胃の中で動いてるよ! という顔をする。虫って本当に苦いらしいよ。
 その言葉に返せるものを持っていないのか、話題をあからさまに逸らす。
「でも、どうするんだ、これから。周りはお前のことを、俺、つまり男だって認識してるんだぞ」
「そうだね、そこばっかりはどうしようもないから、女の子顔の少年として生きていくしかないね」
「たとえ、誰かを好きになってんも叶うことはないし、愛されたとしても自分の名前じゃなく俺の名前をそいつは呼ぶんだぞ…………それでもいいのか?」
「いいよ、とまではいかないけどしょうがないよ。生きてるだけで(もう)けもんだし。私としてはそんなことより」
 先ほどのマイナスの表情は見る影もなく、また微笑んでいる。少し情緒(じょうちょ)不安定気味なのかもしれない。これはこの年頃特有のものだろうか。
「イヅル君あんまりショック受けてないよね。私の心配までしてくれるくらいだし」
 イヅルはそれにノーリアクションを貫く。
「もしかしてまだ諦めてないの? それとも楽観視してるのかな、昨日みたいに」
「……………」
 からかい気味の口調に無言で返す。
 ミウはくすり、と年相応な笑顔を見せる。
「でも安心して。私がちゃんと飼ってあげるから。お兄ちゃん♪」
「……………………………………………」
 それを聞いたイヅルは怒ったのか、一瞬目を見開いて言葉を発しようとしたが、口を閉じて(きびす)を返し去っていった。
「ふふふ、かーわいい」
 ミウは妙に大人びた笑い方をした。
 大人の女性が年頃の少年を手玉に取るかのようだ。
 テンプレートな鐘の放送が鳴る。
 HRを受けるためにミウも教室へ向かう。
 イヅルのクラスではなく自分のクラスへと。



 もう読者はおわかりだろうか。
 ミウ、と名乗ったあの少女の実態。
 ミウ、と名乗ったあの人外の正体。
 イヅルと逢魔(おうま)ヶ時に出会い、
『世界』という全てを望み、
 あのガードレールの向こう側から動けず、 
 存在感がない、ではなく存在感が足りない彼女。
 これから導き出される名詞は少ないだろう。
 それは、幽霊。
 ゴースト。
 ファントム。
 いわゆる、死んだ人間が消滅しきれず残った魂のこと。
 そう考えれば、彼女の行動はすべて合致する。
 あの存在感のなさは、幽霊そのもの。
 あの場所から動けなかったのは、地縛霊というもの。
『世界』を欲しがったのは、なくした『世界』を取り戻したかったから。
 生きた『世界』がうらやましかったから。
 生きた『世界』がうらめしかったから。
 死者蘇生、でなくて、死者復活。
 ゆえに一度死んだ人間が、再び手に入れた生を手放すとは思えない。
 イヅルはこれ以上ない窮地(きゅうち)に立たされていることになる。

 そんなイヅル君は今とある部屋の前で立ち止まっていた。
 部屋の中からはきゃいきゃいと年頃の女の子の甲高いとまで言える、(たわむ)れる話し声が聞こえている。
 目の前の部屋は俗に女子更衣室と呼ばれている。
 日頃から男子の注目の的である部屋。
 そして、今自分は透明人間のような存在である。
…………………………………………………………………………。
 く! こんな時でもオトコノコの思考をしてしまう自分が憎い!
 割と能天気なイヅル君であった。



 ミウは教室で元イヅルの席に座り元イヅルの教科書を使って、問題なく授業を受けていた。
 否、問題はありまくりだった。
「問、半径Rの円Oに内接する三角形ABCは、AB=5、AC=9、∠BAC>90°、sin∠BAC=4/5……………………わかんない、ちっともわかんない………」
 ミウの外見は昔っから身長が低いために幼くみられがちで、中学生になっても小学生と間違えられた程。今でもあんまかわらず、当然、年相応の頭脳しか持っていないわけで、中学生に高校生の問題が解けるはずもない。
『世界』は買えても、流石に記憶までは買えない。
 しかし、このままでは留年確定という地味に危機的状況に陥っている。
 こういう現実的な問題は後回しだ。
 まずは非現実な問題からかたしていこう。
 ミウがこのまま「イヅル」として生きていくためにはさまざまな問題が山積みなのだ。
 先の年齢差ゆえに生じる切実な弊害(へいがい)は勉強面だけではない、制服の(たけ)も合わないのも問題だ。
 昨日イヅルと別れた後に後をつけて、不用心にも鍵をかけずに寝た彼の部屋に忍び込んで当面必要なものは持ち去ってきたのだ。
『世界』、つまり彼の全てつまり物の所有権も買ったので、堂々とその部屋の所有権を主張してもよかったのだが、なんとなく、やめた。
 なんとなく、2回目の出会いを演出して驚かせたかったのだ。
 些細(ささい)で悪意のない悪戯(いたずら)
 ミウにとってそれは何の思惑もないただのイタズラ。
 それで相手がどれだけの悲しみや怒りやショックを受け傷つくかまで考えがいたらない、幼稚、というより幼い思考。
 予想通りにうまく事が運んで少し上機嫌なくらいだ。
 とりあえず第一にやりたいことはやったので、当面の対策を練らないといけない。
 とりあえず必要なことは3つ。
 イヅルの交友関係を知ること。
 イヅルのプロフィールを知ること。
 イヅルの過去を知ること。
 昨日までは彼の住所と家族構成をも把握しないといけなかったが、後を付けたのと、あの狭いどう考えても独り暮らしな学生用のワンルームを見たので後回しにしてもいいと判断した。
 プロフィールはどうとでもなるとして、ほかの2つ。

 まず交友関係。
 これは簡単に割り出せた。
 朝、会話していた三人はもとより、ミウ、というよりイヅルは色々な人間から話しかけられた。
 登校中の坂で、校門前で、校門から下駄箱まで、上履きははかずに(どこにあるかわからなかった)スリッパを事務で借りた時、そこから教室に向かう廊下にて、教室を探して間違えて入った下級生のクラス、上級生のクラス、2年生の教室が並んでいる廊下で、クラスに入って、席に着いてから、それまでに全学年どころか教師、事務の人まで様々な人間に挨拶され話しかけられた。
 有名、を通り越して(した)われている。
 実際、それはスゴいなんてものじゃない。会う人会う人に話しかけられ笑顔を見せられる。友達百人という偉業を本気で成し遂げていた。
 会う人会う人、イヅル、イヅル君、イヅルさん、イヅル先輩、アイサカ、いーちゃん、ツル、ツルさん、伊鶴、アイサカ先輩、相坂、イヅっち、片割れ、副会長、イケニエ君、オカ研、イヅ君、イヅルン、イヅルン先輩、と三者三様の呼び方で彼を呼んでいた。
 彼の、例え『世界』を奪われても怒鳴ったり暴力を振るおうとしない、相手が危険だとわかっても相手に求められれば応じてしまう、いわゆるお人()しの性格ならば無理もないことかもしれない。ミウは何故か、胸がずきりと痛んだ。

 次にイヅルの過去。
 生まれや、友達との思い出といった知識がないと話が噛み合わず(ほころ)びができて、せっかく手に入れた普通の生活が破綻してしまうかもしれない。
 所詮(しょせん)、砂上の楼閣(ろうかく)なのだ。慎重にいかないといけない。
 心理テストだと言って、とりわけ仲がよさそうだった朝の3人組に聞いてみたが、どうにも要領を得ない。
 その態度に一番あてはまる単語は「ごまかしている」だと思うが本人の過去を本人に隠す必要はないので違うだろう。
 まあ、急に友人から自分のことどう思ってる? なんて聞かれたら誰だってそうなるだろう。
 とりあえず聞き出せた情報は、一人暮らししている。彼女はいないらしい。両親が離婚している。親と仲が悪い。転校生である。女の子(楠木)とは小・中学生の時同級生だった。でも中学の時に転校して高校に転入してくるまで音沙汰がなかった。などである。
 正直、反抗期がなくて親との仲も良好なタイプ、だと思っていたのだがどうやら違うらしい。両親が離婚した時から親とは仲違(なかたが)いしてそのまま、らしい。
 もっと詳しく聞きたがったが、自分の話を他人に聞くのもおかしな話なのであまり突っ込んだことは聞けなかった。
 ミウはあとで主人公が記憶喪失になるストーリーの本でも借りて参考にしようと思いながら、次の授業の準備を始めた。



 イヅルは校内を散策していた。
 こうして歩いてみると結構、意外な発見ができるものだ。
 この場合、学校の、ではなく自分の状況の、だが。
 やはり、誰にも自分のことは認識どころか触れることすらできないようだった。
 窓にも映るし、開けられる、鏡にも映る。
 なのに人間には触れられず、話しかけれない。
 チョークで授業中の黒板に自分の名前を書いてみた。
 もしかすると反応があるかもしれないと思ったが、板書が進んでいくうちに教師の書いた文字とかぶさり「先生、そこ字が汚くて読めません」の一言で消されてしまった。
 何回も試してみたが、教師が笑われるだけで終わった。
 似たようなことを他にもいくつか試したが全て徒労になった。
 つまり、今は名前と人である権利、つまり人と関われる権利がすべて奪われた状態だ、と考える。
 水にふれると波紋ができ扉を押すと開けられるが、どんな形でも人との関与はできない。
 そして、彼女が言ったことが理解できた。
 まるで、自分が存在していないかのようだ。
 誰にも見られず、誰にも言われず、誰にも聞かれず、誰にも認められない。
 自分以外に誰もいない無人島みたいな、否、周りに人がいるのにふれあえないのだからそれ以上の疎外感が胸の内を締め付ける。
 我思う、ゆえに我あり。
 今のところ自分が自分であると証明できるのはそれだけだ。
 というより、もう、それしかない。
 どんどん心が()り減っていくのが感じられる。
 耐えきれない、このままだと壊れてしまう。こんな高校生の自分でもここまで辛い現実を、小学生にすら見える外見の彼女は耐えていたのか。驚嘆に値する。
 苦しい、辛い。
 死んでしまいたい、楽になりたい。
 頭がおかしくなりそうだ。
 そうネガティブな思考が心を占拠していく。
 途中、昼休みに唯一自分を認識できるミウと会ってみようかな、と思ったが止めた。
 それは滑稽(こっけい)な真似だ。スリにあった人が、スリ師から盗られた財布で恵んでもらうようなものだ。
 そんなプライドがあったのか、はたまた別の理由があるのか、イヅルはもう二度彼女と会わない方がいい、そう思った。
 すくなくとも彼は同情や憐憫(れんびん)、憎悪や怒りといった感情を彼女に向けていなかった。
 彼はふんぎりをつけると、短い間だったがそれなりに居心地のよかった学び屋から去って行く。
 彼が後ろを振り向くことは一度もなかった。
 


 時間は放課後、ミウは廊下をだぶだぶのズボンの裾をすこし引きずって歩いていた。
 裾はいくらか(まく)って安全ピンで固定してあったのだが、捲る量が多かったのでそれ以上捲ると捲った部分が太くなりすぎて歩きづらくなってしまうのだ。
 それは仕方ないとして諦め、今はオカルト研究部に向かっているのだ。
イヅルの交友調査の時、第三者の視点からはどう映っているのかを知るために彼が誰と一番親しく見えるかといろんな人に質問したところ、ほぼ全会一致で「嶺束ミネコ」という女生徒の名前が挙がった。何故か少し(かん)に障ったが、まあ余談である。
 彼女に会いに行くのは一つの確認である。
 こういう定石として幽霊は親しいものにしか見えない。
 一番親しいものに見えなければ、誰にも見えないだろう。
 イヅルと一番親しいと認識されている彼女が認識できなければ、誰にも認識できないだろう。そうミウは考えたのだ。
 穴だらけの理論だが、まあそんな大外れという程でもない。
 イヅルの場合、友人は浅く広くを主義にしていたし、家族は絶縁寸前の険悪な状態だ。
 残る妥当な席は、恋人。
 まがりなりにも女性である(と言われる程素敵な人物らしい)『嶺柄ミネコ』はそこに当てはまるのでは? ということ。
 そんなことは本人に聞こうと思っていたが(拒絶されるとは全くと言って思っていない、幽霊であっただけに世間ずれしている)当のイヅル君は何処に行ってしまったのか、昼休みに探索を兼ねて探したのだが何処にもいなかった。
 まあ、どうせ自分の元に帰ってくるしかないのだが。
 朝の「飼う」発言は彼女なりの冗句で、本当は一緒に過ごしていけたらと思っていた。
 もっと言うならあの場所で、彼と話をするだけでもよかった。
 あんな所で自分が置かれた状況どころか自分の過去すらわからず狂いそうになるほど人恋しく、あの崖から飛び降りてしまおうかと考えるほどに切羽詰まっていた。
 その時、彼がやってきた。
 彼はあの場所で毎日眺めてるような自然さで立ち止まった。
 その横顔はどこか悲しげで、どこか浮世離れしていた。
 彼は私と似ている、そう何故か直感した。
 そして無駄だと知りつつ、気づいたら彼に話しかけていた。
 でも無駄ではなく、彼はミウに気がついた。
 この時、ミウがどれほどの感激を覚えたのかは本人にだって言い表せないくらい大きく嬉しいものだった。
 夕方のほんのひと時だけ会話できるだけでよかった。
 それだけで良かった。
 でも、欲が出てしまった。
 彼の横にいたい、と。
 どんな形でもいいから。
 もう二度と一人は嫌だ、と。
 そして背中を押されたのだ、彼自身に。
「相手のことばかり考えてても、人生、幸せつかみ損ねるぞ」
 だからせめて二度目の人生は幸せになりたかった。
 その結果、彼が自分のことを憎んだりなんて微塵(みじん)にもミウは思ってなかった。
 彼女はどこまでも無垢(むく)なのだ。
 悪気もなく、無垢で、でも無邪気な、子供そのもの。
 それでも彼女は、彼からすべてを奪い。
 わがままで、考えが浅く、人の気持ちを推し量れない。
 それでも、彼女は彼が好きだった。
 彼は、今どこにいるのだろう?
「お兄ちゃんの…………ばか」


 ミウは(周りにそれとなく場所を聞き出した)目当てのオカルト研究会のねぐらにたどり着くことができた。
「…………なるほどね」
 その部屋の扉の前のプレートはこう書かれていた。
『生徒会室(兼オカルト研究会 研究室)』
 話で聞く限りで判断すると、嶺柄ミネコは横暴で自己中な人間でトラブルばっかり起こす人間らしい。
 それを止める人はいないのか、とそのときは思った。
 例えば生徒会とか。
 なるほど本人がその生徒会に所属していて、しかも『オカルト研究会』の会長ならば生徒会の方でも会長なのだろう。
 率先して規律を守るべき人物が規律を乱し、取り締まるべき人物が風紀を乱しているとなれば止める人物はいない。
 しかし会いもせずたった一日の風聞によってしか彼女のことを知らない自分にすらそう思われてしまうのに、会長であり続けられるのは何か裏があるのだろう。
 少なくとも一筋縄でいく人物ではあるまい。
 ミウは少し緊張しながらノックせず無遠慮に扉を開け放つ。 
 そこには制服を完全に着こなしている女性がいた。
 絶対に成人しているであろうその制服では抑えきれない色香と、鋭い目つきと泰然(たいぜん)とした雰囲気からでてくる風格を、腕に付いている腕章が裏切っていた。
『生徒会 会長』
そして彼女は、
「遅かったじゃないか――――――――――――――――――イヅル(・・・)
 と彼の名を呼んだ。
 その結果にミウは微笑む。
 快活に笑うでもなく、愉快に笑うでもなく、ただ微笑んだ。
 ただ、無邪気に微笑んだ。
 いたずらが成功した子供のように。
 ただ、微笑んだ。
 猫のように邪悪気に笑った。


 イヅルはあの場所にいた。
 彼女―――ミウと出会った場所に。
 長く高い坂の中腹にある、時間をかけゆっくり下ってたどり着いた、街を一望(いちぼう)することができる場所。
 彼の瞳は、ぼんやりとしていて、少なくとも街を見てはいなかった。
 彼はその目で何を見ているのだろうか?
 彼はその胸にどんな気持ちを抱いているのだろうか?
 後悔? 悲痛?
 すくなくとも歓喜などといったプラスの感情ではないようだ。
 何を思ったのかガードレールに近づき、それに手をついて、覗き込むように下を見ようと身を乗り出す。
 その視線の先に地面は見えず木々が生い(しげ)っているだけ。
 奈落の底、というより谷底という表現が近い。
 その光景に何を思ったのか、何も思わなかったのか、彼は器用にガードレールの上に登り、立ち上がる。
 そして腕を、手を、西へ傾いた日を(さえぎ)るように上へかざす。

 神へ救いを求めるように、手を伸ばす。
 この思い、天まで届けと、腕を伸ばす。

 そしてイヅルは飛び降りる。
 ……………………………………………………………………………………………………………




To Be Countned…………………………………
次回最終話・第三部 結(欠)
第三部 結(欠) 戻る